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平安時代

平安時代の年表

光仁天皇の政策 奈良時代後半には律令体制の矛盾が表面化し、また僧侶勢力の過度の進出もあって政治は腐敗し、多くの弊害がでてきた。770年に称徳天皇が崩御し天武天皇の系統が絶えた時、藤原百川(武家)・藤原永手(北家)らは天智天皇の皇孫白壁王を擁立し、ここに光仁天皇が即位すると、政権は再び藤原氏ら律令貴族の手に帰し、政治の刷新がすすめられた。律令政治の再建を目指した藤原氏は、新天皇のもとに仏教政治の弊害を絶ち、無駄な官をはぶいて国力の回復につとめ、律令制を現実に合わせて修正していった。とくに不要の官司の廃絶とならんで国司の員外官をも制限し、要地以外の軍団を廃して徴兵制を縮小し、諸官司の仕丁などを多く帰農させ、また公私の推挙の不法を取り締まった。これらの諸政策は時にかなったもので、のちに桓武天皇による律令再建の出発点となった。
員外官 令に規定された諸官の定員貝におかれた官で、とくに地方官(国司)に多かった。事務の繁忙を理由として新設されていったが、やがて政治的・経済的目的にその官が利用され、弊害をうんだ。
平安遷都 781年(天応元)に即位した桓武天皇は、天武系の影響の強い旧勢力からの絶縁と奈良仏教からの脱却をはかり、政界の気運を一掃するために遷都を計画した。新都は山城国乙訓郡長岡、ついで同国葛野(かどの)郡の地、今の京都市の位置に営まれ、794年(延暦13)ここに遷都した。これを平安京といい、これ以後東京遷都までの約1100年間もの間、帝都としてさかえた。またこれ以後12世紀の末に鎌倉政権が成立するまでの400年間を平安時代と呼ぶが、その中で、桓武天皇から醍醐天皇の時代までの150年間は、律令国家再興の努力がはらわれた時代でもあった。長岡遷都の折り、造長岡宮使藤原種継暗殺事件、早良親王廃太子・怨霊事件などにより中止となる。ついで和気清麻呂の建議にもとづき葛野郡の地に造営されたが、未完成のままの部分が残った。
桓武天皇の政治 桓武天皇は強い指導力をもって政治の刷新につとめた。仏教を政治から隔離させることを目的として、それまで造寺・造仏に費やされた国家財政を緊縮し、また寺院への土地寄進を禁止した。平城京から平安京への寺院の移転を許さず、仏教の内部革新を目指して最澄や空海の入唐求道を支援し、南都六宗にかわる新仏教の開立を全面的に保護する政策がとられていった。
 律令政治の再興のための律令の励行を期したが、同時にこれを社会の進展の実状にあわせて修正し、不用のものを廃止し、新制をつくり出して、律令に新しい活力を注入することにつとめた。その最も重要なことは律令制の根本である班田制の再建であったが、班田は6年1班が実行困難となったので801年(延暦20)に12年1班に改め、これと関連して貴族・寺社が公私共有の山川藪沢を占有することを禁じた(大土私有の抑止)。さらに出挙の利子を5割から3割に下げ、雑徭を60日から30日に半減するなど、農民の負担軽減をはかった。一方良賤制を改制し、課役を負担する良民の確保・拡大につとめた。また、地方政治の刷新のために勘解由使を設け、軍事力の強化のためにこれまでの軍団の多くを廃止して健児の制を正規の兵制とした。
勘解由使 国司の不正・怠慢が地方政治を乱して、国民の負担が重くなっていることにかんがみ、国司の監督を厳しくし、その交代を厳重に見守るために勘解由使がおかれた。国司後退の際に、新任国司は事務引継に欠陥のないことを証明する書類(解由状)を前任国司に渡した。これに不正がないかどうか調べるのが勘解由使である。
健児の制 健児は奈良時代にもあったが、桓武天皇の時代に正規の兵制となった。班田農民の窮乏にともない兵士の質が落ち、軍団の維持が困難となったので、農民の負担を軽減し軍事力を強化するため、これまでの徴兵制をあらため、辺境の要地以外の軍団を廃止し、792年(延暦11)にこの制を作った。健児には郡司などの富裕者・有位者の子弟で弓馬に優れたものを採用し、その食糧にあてるために健児田がおかれた。健児の人数は国の代償により異なり20〜300人であって、年間に60日間、交替で国府の警備にあたった。
良賤制の改制 良民・賤民間の婚姻を解禁し、両者間に生まれた子は従来賤としていたのを良とした。
蝦夷の征討 奈良時代に東北の経営は順調だったが、末期になると律令支配の統制がゆるみ、軍団の兵士が劣弱化したため、蝦夷の勢力が強大となり、各地で反乱を起こした。桓武天皇はこの反乱の鎮定に努力し、数回にわたる大遠征軍をおこしたが、とくに801年(延暦20)には坂上田村麻呂を征夷大将軍として派遣し、これまでにない戦果ををあげた。多賀城を回復したあと、802年には胆沢城をきずいて鎮守府をここに移し、さらに北上して志波城を築いた。また日本海側も能代川流域まですすみ、出羽・陸奥間の連絡も容易になった。その後、811年(弘仁2)には文室綿麻呂の征討があり、蝦夷に対する同化政策もすすんで、朝廷の東北地方経営はここに一段落した。
官制改革 桓武天皇ののち平城天皇・嵯峨天皇と続くが、この間には藤原薬子の乱などの動揺はあったものの、一貫して桓武天皇以来の律令政治の刷新の努力は続けられた。政治の刷新に対応して、法制の整備とともに運営が複雑であった律令制度の官制の簡素化が行われたが、これは結果的には律令制度を形式上からも崩壊に導くものであった。平城の時世に八省の下にあった官庁の数を半減したが、さらに嵯峨天皇の810年(弘仁元)には蔵人や検非違使がおかれ、律令制度の大改革ともいうべき官制改革が行われた。制度が簡素化され、天皇の私的な側面が政治制度の中心に色濃くなってゆく中で、従来の太政官制はようやく有名無実化していった。
令外官 蔵人や検非違使のように令の規定にはないが必要に応じて官制として補充した官を令外官という。令外官の一つである中納言・参議は、はやくも文武天皇の時代におかれたが、平安時代になってさかんに令外官がおかれるようになり、関白・勘解由使・按察使(あぜち・鎮守将軍・征夷大将軍など実権を持ったものが多い。
蔵人 蔵人は宮中の機密のもれるのを防ぐため、令制の官職をへないで天皇と政府との連絡が直接かつ簡単にできるように天皇の腹心の臣を任用したもので、その役所を蔵人所、上級蔵人を蔵人頭(くろうどのとう)という。810年、薬子の乱に際して、嵯峨天皇が藤原冬嗣と巨勢野足(こせののたり)に命じて秘密書類の保管、奏上と命令の取り次ぎなど重要な任務にあたらせたことにはじまり、その任務がそのまま蔵人の職能として固定した。なお蔵人が天皇の命を伝達するときには、宣旨(せんじ)という簡単な文書形式が用いられた。
検非違使 はじめ衛門府の中におかれ、京都の治安維持にあたったが、しだいに権限を拡大して訴訟・裁判を行うようになり、824年(天長元)には検非違使庁が設けられた。これは治安維持のために、令制の欠陥を補うものとされている。
格式の編纂 官制の改変・整備とともに、法制の改正・整備も行われ、格や式がさかんい出されていたが、嵯峨天皇の頃から格式を分類・整理して編纂する事業がはじまった。格は律令を修正・補足するために、式は律令の施行細則として時に応じて出されたもので、その実態は詔・勅・官府などの文書様式によって随時発布された臨時の法令であった。したがって、時の経過とともにその数は莫大となり、その法令を検索するのに不便がともなったので、格式を編纂して実用の便をはかろうとする計画がはじまった。こうした格式の分類整理は桓武天皇のときに延暦交替式の試みもあったが、大宝律令制定後の格式の集大成としては、820年(弘仁11)藤原冬嗣らによって、はじめて「弘仁格」「弘仁式」が編纂された。
延暦交替式 古来の法令や格式の中から国史の交代に関するものを集め、菅野真道らが編集し803年(延暦22)に成立した。
三代格式 弘仁格式の編纂ののち清和天皇の時代には、弘仁格式以後の格式を編纂した「貞観格式」が、醍醐天皇のときには、貞観格式以後の格式をまとめた「延喜格式」ができた。この3つの格式を総称して三代格式という。このうち延喜式以外は現存しないが、三代格式のうちの格だけを項目別に整理編集した「類聚三代格」が残っていて、これによって格の内容を知ることができる。これは六国史を事項別に分類集成したもので、菅原道真が編纂した。
六国史 律令政治の形式的整備をあらわすものとして、政府による官撰国史の編纂がある。日本書紀につぐ正史として「続日本紀」が撰集され、ついで「日本後紀」「続日本後紀」「文徳天皇実録」「日本三代実録」が編纂され、光孝天皇までの歴史が901年(延喜元)に完成した。これを総称して六国史という。
書名 記述範囲 成立年 編集者
日本書紀 神代〜持統 720 舎人親王ら
続日本紀 文武〜桓武 797 藤原継縄ら
日本後紀 桓武〜淳和 841 藤原緒嗣ら
続日本後紀 仁明 869 藤原良房ら
文徳天皇実録 文徳 879 藤原基経ら
日本三代実録 清和/陽成/光孝 901 藤原時平ら
平安初期の文化 この時代にも、文化のうえでは唐風のものが尊重された。しかし、その反面で唐文化はすでに盛時の活気を失っており、日本でも外国文化と固有文化の融合がうすみ、日本独自の文化を生み出す基礎を準備しはじめていた。
大学別曹 嵯峨天皇以下、歴代天皇は学問を重んじ、そのため貴族の間でも漢文学など学問研究が盛んとなり、大学では文章道(漢文学)が最も栄えた。しかし、大学・国学の学校制度が弱体化したので、貴族の子弟は諸氏の私院で学ぶことが多くなった。これは貴族の子弟を収容する図書館兼寄宿舎で、大学別曹という。大学別曹で有名なのは藤原氏の勧学院、和気氏の弘文院、橘氏の学館院、在原氏の奨学院など。なお、空海は藤原三守の邸を利用し綜芸種智院(しゅげいしゅちいん)をたて、庶民を対象に儒教・仏教を教えた。
学問 貴族の間では漢詩文が流行し、白居易(白楽天)の「白氏文集」は貴族の愛読書であった。勅撰の漢詩文集が出たのもこの時代の特色で、嵯峨天皇の勅命により「凌雲集」が編まれてから、「文華秀麗集」「経国集」とあいついで編纂された。また個人の詩集としては空海の「性霊集」がある。当時の代表的な文人には、嵯峨天皇・小野岑守・小野篁・空海・滋野貞主・大江音人・橘広相・紀長谷雄・菅原道真・都良香らがいる。
新仏教 仏教界にも革新の気運がおこり、最澄と空海によってはじめられた天台宗と真言宗とが、新しい平安仏教の時代をひらいた。
天台宗 最澄は804年遣唐学問僧として空海とともに入唐したあ。最澄は翌年帰国すると、比叡山に延暦寺をひらいて天台宗をおこし、旧仏教と激しく対立した。彼は門弟の養成のために「山家学生式(さんげがくしょうしき)」を定め12年間山門を出ずに修行すべきだと説くとともに、宗風をひろめるためにさかんな論争を行い、しだいに教団を発展させていった。また、彼は東大寺戒壇を小乗戒壇として、延暦寺に大乗戒壇を設けることを嵯峨天皇に願い出て、南都武侠の激しい反対にあった。このとき「顕戒論」を著してこれを反ばくしたが、戒壇設立が勅許されたのは最澄の死後822年(弘仁13年)だった。中国の天台大師によってはじめられた宗派で、法華経の教えに基づくかなり哲学的な宗教。
東大寺戒壇 「戒壇」とは僧に戒を授けるために設けられた壇上のこと。東大寺の他に下野薬師寺・筑紫観世音寺にあったが、一人前の僧になるにはこのいずれかで受戒する必要があった。
真言宗 空海は最澄よりややおくれて帰国し、紀伊高野山の金剛峰寺(こんごうぶじ)や京都の東寺(教王護国寺)を拠点に真言宗をひらいた。また東大寺別当となって真言院をたて南都(奈良)における真言宗の根本同情とした。真言宗は密教を取り入れたもので、現世利益を求める人々の機微に投じたばかりでなく、また奈良の旧仏教勢力と妥協的態度をとったため、早くから大きな教団勢力を形成することになった。
密教 仏教の経典にあらわれ釈迦が平明に説いた教えである顕教に対して、教典にあらわれない秘密の教えを密教という。加持祈祷によって国家を鎮護し、また即身成仏・現世利益を説いたので、藤原氏などの貴族の間で大いにひろまり、真言宗発展の原因となった。天台宗でも、最澄の弟子の円仁、その弟子の円珍が入唐して密教を学んで帰ってからは、密教が支配的となった。円珍は園城寺(三井寺)を開創し、延暦寺の山門に対し、寺門と称せられた。天台宗は二分したが、両派とも密教により大きく発展した。また東寺を中心とする真言宗を東密、天台密教を台密という。
神仏の習合 仏教が日本化して深く根をおろすに至った原因として、密教のほかに神仏習合の思想があげらる。これは神と仏は相互に依存し合うものとする考えで、すでに奈良時代からはじまった思想であった。こうした考えから仏教はわが国固有の神祠信仰と融合し、いっそう人々の間にひろまっていった。神社に神宮寺を建てたり、寺院に鎮守神をまつるなどは、そのあらわれである。
本地垂迹説神仏の依存関係を考えるにとどまった神仏習合思想は、やがて神も煩悩に苦しむ衆生であり、仏法に救われて菩薩になるという仏教を有位におく仏本思想がうまれ、さらに発展して、日本の神はインドの仏が日本の衆生を救う方便として仮に日本にあらわれた化神であると考え、ついで個々の神を特定の仏に結びつけるようになった。これを本地垂迹説という。なお「権現」とは、仮に現れることで、神に化身した仏の呼び名である。
文化の特色 文化史・美術史の上で平安初期は弘仁・貞観期といわれるが、この時代の美術作品は天平時代末期の重厚な様式に、密教的な神秘的要素が加わったのを特色とする。また量感があって艶麗。
仏像彫刻 とくに神父的で量感のあるものが多い。この時代の彫刻では木彫りが盛んになり、一木作りが行われ、また技法上では翻波式といって、波形のひだを幾重にも作り、立体的な量感を出すようになった。代表作としては神護寺・新薬師寺・元興寺の薬師如来像、室生寺の釈迦如来像、観心寺の如意輪観音像、東寺の五大明王像などがあり、また神仏習合思想による僧形八幡神像・神功皇后像などがつくられた。
絵画と書道 絵画にも密教の影響が強く、密教による仏教の世界を描いた胎蔵界・金剛界の両界曼陀羅(りょうかいまんだら)をうつすことがさかんであった。作品としては神護寺の両界曼陀羅や和歌山県有志八幡講の金剛孔菩薩像、園城寺の黄不動、高野山明王院の赤不動などの密教美術の傑作がある。また仏画のほかに世俗画があらわれ、百済河成・巨勢金岡の名が知られ、これらは次の時代の大和絵の源流となった。また書道も盛んで、とくに嵯峨天皇・空海・橘逸勢は三筆と称されて有名。
寺院建築 新仏教興隆にもとづく寺院の建立があるが、山岳寺院のため伽藍配置は地形に応じて自由になされ、山の斜面や断崖などにも特殊な工法で堂・塔がたてられた。宝生寺の金堂・五重の塔、醍醐寺の五重塔などが現存。

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